少年死刑囚 関光彦(当時19歳)

1992年(平成4年)2月12日深夜

千葉県市川市でコンビニへの道を自転車で急ぐ少女がいた。

少女は15歳で、勉強中にシャープペンシルの芯が切れたため

コンビニへ買いに出たのである。

 

クラスの副委員長をつとめ、演劇部と美術部をかけもちする

真面目な生徒であった。 
しかし帰宅途中、自転車は背後から走ってきた車に追突され、

少女が転んで膝に擦過傷を負った。 


車からおりてきた男は彼女を救急病院へ連れていき、

手当てを受けさせた。そのまま自宅まで送り届けて

もらえるものと少女は思っていたが、

しかし突如男は豹変し、ナイフを突きつけてきたのである。 


頬を切られて怯える少女を男はアパートへ連れ込み、

2度犯した。そして現金を奪い、生徒手帳を出させて

住所と名前を控えた。 


男の名は関光彦。まだ19歳になったばかりで、

余談だがこの22時間前にも24歳のOLを殴りつけ、

強姦している。 

 

 

1992年(平成4年)3月5日午後5時前

関は少女の自宅へ押し入った。 
事前にかけた電話に誰も出なかったため彼はてっきり

家は無人だと思い込んでいた。

だが、実際には少女の祖母が留守番をしていたのである。 

 

関は祖母に向かって、 「通帳を出せ」 と凄んだが、

彼女は怯えた様子もなく自分の財布から8万円を抜き出し、

これをやるから帰れ、と言った。 


馬鹿にされた、と思い関はカッとなった。

さらに脅しつけたが老女がひるまず警察に通報しようとしたため、

関は激昂し彼女を配線コードで絞殺する。 


死体を横にさらに金品を漁っていると、午後7時頃に

母親とともに少女が帰宅してきた。 


関は母親を包丁で刺殺。そして床に広がったその血と尿を、

娘である少女にタオルで拭き清めることを命じた

目の前で母親を殺され、放心状態の少女は唯々諾々とそれに従った。 

 

その後、保母に連れられて少女の妹が帰宅。 
夕食後、まだわずか4歳の妹は絞殺された祖母の死体が転がる部屋へ、

TVを観ていろと追いやられる。 


それから関は少女を、本人いわく「気分転換しようと」強姦した。

しかし凌辱の最中に少女の父親が帰宅してきたため、これをも刺殺。

通帳を奪ったあと、少女をラブホテルへ連れ込み、

その場で2度強姦している。

 

翌朝、少女の家へ戻ってみると、目をました4歳の妹が泣いていた。 
泣き声に腹を立てた関はその体を掴み、背中から包丁を突き入れ

胸にまで貫通させた。 


「いたい、いたい」と幼い妹が細い泣き声をあげるのを聞き、

少女に向かって「楽にさせてやれ」と言ったが、

少女が動けずにいたので関が絞殺したという。 


恐怖の頂点にいた少女は、わずか4つの妹を殺されて

糸が切れたようになり、そのとき初めて関に歯向かった。 
関は少女にも包丁をふるい、左腕と背中を切りつける。 


しかし凶行はそこまでだった。通報によって警官が駆けつけたのだ。

関は少女に包丁を持たせ、 
「お前、これを俺に突きつけて脅してるふりをしろ」 
と言った。

 

しかし矢継ぎ早の不幸に身も心も疲弊しきっていた少女は、

呆然として座り込んだまま動かない。 
苛立って少女を怒鳴りつけた瞬間、雪崩れ込んだ警官隊に

彼は捕縛された。 

 

少女が14時間ぶりに保護され、毛布をかけられたその時も、

傍らには少女の母、父、祖母、妹がものいわぬ死体となって

転がっていた。

 

 

 

関光彦は1973年1月に生まれた。 

 

祖父は戦後、一代で鰻屋チェーン店のオーナーとなった

成功者であったが、その愛娘と駆け落ち同然に結婚した男は、

絵に書いたようなろくでなしであった。 


光彦が生まれたため祖父も二人の仲を許さざるを得なかったのだが

飲む・打つ・買うの悪癖を備えた男の所業のせいで

結婚生活はじきに破綻した。光彦は幼い頃から、父に殴られ、

蹴られる母の姿をみて育った。父は光彦をもしばしば折檻した。

 
折檻された光彦は家を飛び出し、そのたび祖父のもとへ逃げ込んだ。

祖父は光彦には甘かったのである。

 
彼が9歳になったとき、家庭は決定的に崩壊した。

父の借金が億を超えたのだった。この返済のため、

祖父は血の滲むような思いをして一代で築き上げた

資産のほとんどすべてを失わなければならなかった。

 
祖父もさすがにもう彼ら一家の面倒はみきれず、

縁を切ると言い渡した。 
両親は離婚し、頼みの祖父にも絶縁を宣告された光彦は、

すべてに見放されたような気がしたという。 
一転して極貧生活へ落ちた光彦は、転校先でもいじめられ、

次第に鬱屈していった。 

だが中学へ上がる頃には祖父の態度も軟化しており、

ふたたび母親と祖父は親子関係を修復した。 
光彦は所属した少年野球のチームではエースの四番となり、

恵まれた体格と腕力で他を圧倒した。

しかし、一度ねじれた性質はもうもとへは戻らなかった

。父親の性格を強く引き継いでいた、とも言えるだろう。 
学校では真面目な生徒を演じていたが、

放課後ともなれば窃盗と飲酒にふけり、母親と弟を殴った。

 

高校へは進学したものの、二年生の5月で自主退学。 
しばらくは祖父の鰻屋で働くが、暴力癖はおさまらず

むしろ悪化していく一方であった。

結局、鰻屋は「きついばかりでちっとも面白くない」

と言って半年足らずでやめ、その後は夜の街でのバイトを

転々として暮らすようになる。 


しかし遊ぶ金はいくらあっても足りない。

祖父の店へ侵入し、売上金の120万を盗み、

その1ヶ月後、また6万円を盗んだ。

これを咎められ、光彦は祖父の顔面を蹴った。

足の親指が左目に突き刺さり、眼球破裂で祖父は片目を失明した。 

18歳になりフィリピン人女性と結婚するが、

彼女は3ヶ月足らずで母国へ帰ってしまった。

 
不満を溜め込んだ関はフィリピンパブで働く女性を

店には無断で連れ出し、アパートへ無理に泊めた。

これに怒った経営者がヤクザに依頼し、

関は200万円の慰謝料を請求される。 


彼が被害者の少女宅へ押し入り、あれほどの惨事を

引き起こしたのも、そもそもはこの金策のためであった。 

  
逮捕時、関は「ああ、これで俺もついに少年院行きか」

としか思っていなかった、という。

 
1989年の綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人を思い起こし、

あれだけやっても誰も死刑になってないじゃないか。

俺なんかまだまともだ」とも思っていたそうだ。 

しかし平成6年8月、地裁の判決は死刑であった。

ついで高裁、最高裁ともに上告を棄却。 
平成13年12月、死刑が確定した。 


犯行時未成年で死刑判決が下ったのは、

連続ライフル魔の永山則夫以来である。